10円玉は茶色、50円玉は銀色の穴の開いたやつ、100円玉は中型の銀色で、銀色の大きいのが500円玉ですよね。コンビニで買い物をしているときに、小銭入れからお金をこぼしてしまいました。小銭を床にまき散らしました。
私はため息をつきながら、お金を拾い集めます。店員さんも一緒に拾ってくれました。レジ裏の隅っこにも転がりましたが、お金には色と形があるので、直ちに行動したおかげで拾い集めることができました。つまり、お金は物体で視覚として認識できるので、落としても拾うことができるのです。
一方、信用には色がありません。昔、恩師にこんなことを教わりました。
「他人様に対する信用の証は、金に対する責任を取ることだ!」と。
この教えは、今も私の行動規範の大切な原則になっています。とても味わい深い言葉です。この言葉をよく見ると、金に対応するものは信用であることが分かります。今生の資本主義の世の中においては、ある一定の金の量に対して釣り合う唯一の概念は、その価値に相当する信用の量であると言えます。
金融関係の言葉を見渡しても、信用枠・信用貸し・信用証券・信用情報など信用を冠とする表現は多いです。つまり、金と信用は釣り合っていて、シーソーの関係にあるということです。ただ、ここで問題なのは、信用には色も形もないので、漠として掴みどころがない性質を持っているということです。見えないので、とてもタチが悪いのです。
イメージ図にするとこんな感じです。お金はモノなので金色に輝いていますが、信用(便宜的にグレー表記)は、雲のようにモヤッとしており、透明の氣のような存在なので、決して見ることができません。この世の中は、このような原理原則で成り立っています。そして、この2つの同等の価値をどうやって捕獲するかが、とても大事だと私は思います。
賢明な皆さんならば既知なことで敢えて説明するのも憚れますが、どんな時も必ず信用から先に獲りに行くという癖をつけることです。信用は目に見えないので、普通には獲ることはできません。でも、イメージ図のシーソーに釣り合っている状態に限り、信用を獲ることが可能です。信用は、金の反対側の板のどこかに必ずあるはずだからです。
だから、右側の板の上を慎重に撫でるように手ですくうのです。シーソーのバランスが崩れるまで、慎重に何回も丁寧に板の上を撫でるのです。金の方が重たくなり左側に大きく傾いたら、信用が獲れたという合図になります。金は板の上に置かれているので、傾くことで滑り落ち、床へ転がり落ちますが、金には色が付いているので、後から拾いに行くことができます。
このように、まずは信用を獲りに行くことに意識を集中し、金は床に落としてから、ゆっくりと拾いに行けばいい。こうすれば、信用と金の2つを獲ることが可能なのです。
上の2つのイメージ図を見ながら逆を想像してみて下さい。先に金を獲りに行くと、どうなるでしょうか?
確かに金は獲れるのですが、信用は透明なので板の上からこぼれ落ちてしまうと、もはやその位置を特定する手段を失い、信用を床から拾い上げることは二度とできなくなります。結局、金だけで信用は獲れずじまいになり、1つの価値しか獲れないことになります。師曰く、「金は、落としてから取る」だそうです。
そして、他人様に信用が認められ、それを使える力がついてくると、下図のようなイメージで資金を調達できるようになるのでしょう。
そして、この信用を形成するものを、私はこう考えます。
「あの人は頭が良くて賢いから…」という評価は、他人様に対する信用の一部を形成しますが、それだけでは足りないと思うのです。もっと大事な要素は、「あの人の考え方は道理に叶っていて、その心の在り方が正しく、誠意があるので…」という部分であり、これが信用を形成する一番重要な要素であると、私は確信しています。
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