ワールドカップの決勝トーナメントが始まりました。連日の熱戦に心を奪われている方も多いのではないでしょうか。私もその一人です。
ただ、今大会はピッチの上の熱狂と同じくらい、ピッチの外の「お金」が話題になる大会でもあります。
FIFAは今大会で初めて、チケット販売にダイナミックプライシング(需要に応じて価格が変動する方式)を本格導入しました。招致時の提案書では決勝の最高価格は1,550ドルとされていましたが、今年4月時点で決勝の最安値は5,785ドルに達しています。
ユーロ2024では96ユーロで買えた決勝相当のチケットが、今大会では公式ルートでも3,600ユーロを超えました。米国では州の司法長官がFIFAに召喚状を出す騒ぎにまでなっています。
7月19日の決勝では、W杯史上初のハーフタイムショーが行われます。マドンナ、シャキーラ、BTSが共同ヘッドライナー、キュレーターはコールドプレイのクリス・マーティン。まるでスーパーボウルです。
猛暑対策として導入された「飲水タイム」も、実質的には放送局向けのCM枠ではないかと批判されています。48チーム・104試合への拡大により、FIFAの2023-26サイクルの収入は130億ドル規模に達する見込みだそうです。
クラブレベルでも同じ潮流が進んでいます。プレミアリーグは今や20クラブ中11クラブが米国資本の過半所有。リヴァプール、マンチェスター・ユナイテッド、アーセナル、チェルシーという名門4クラブは、すべて米国のオーナーが握っています。
サッカーの「NBA化」「スーパーボウル化」。W杯優勝キャプテンのフィリップ・ラームは「W杯は売られた」とまで言いました。サッカーは「感情」のスポーツだったはずなのに、「勘定」に乗っ取られてしまうのでしょうか。
そんなことを考えていたタイミングで、一冊の本が手元に届きました。
オントラック卒業生の初めての本
『サッカー×M&A入門 ― The Valuation of Football Clubs』(税務経理協会)。著者の岡本さんは、私の講座に何度も足を運んでくれた受講生であり、ありがたいことに私のことを「ファイナンスの師匠」と呼んでくれます。ファイナンスを学ぶきっかけが拙著『道具としてのファイナンス』だったと言ってくれるのですから、著者冥利に尽きます。
本書は、彼が博士論文として書き上げた「プロサッカークラブの企業価値」の研究を、一般読者向けに再編集したものです。出版を前にした昨年末から年始にかけて、彼から相談を受けました。「初版にかける想いと覚悟を教えてほしい」。
私はこう答えました。「覚悟というものは特にありませんでした。ただ、想いはありました。それが私の本のはしがきに書いたことです。自分は、なぜ論文を書き、それを本という形で世に出したいのか。そこをもう一度じっくり考えてみてはどうですか」。
その答えが、この本の第1章に書かれていました。
横浜フリューゲルスは、消滅するしかなかったのか
1998年。日本がW杯に初出場した歓喜の年に、日本サッカー界は忘れられない悲劇を経験しました。横浜フリューゲルスの消滅です。
本書のすごいところは、この出来事を情緒で語らないところにあります。
岡本さんは1998年12月18日の官報に載った「合併公告」を、そのまま本に掲載しています。全日空スポーツクラブ株式会社の額面5万円株式2,000株に対し、日産フットボールクラブ株式会社の株式72株が割り当てられた。クラブの消滅とは、法律的にはこの数行の公告に過ぎません。
しかしその数行の裏で、応援してきた人の時間が途切れ、地域の物語が断ち切られたのです。
岡本さんが突きつける事実は重いものです。フリューゲルスは弱かったから消滅したのではありません。前園真聖、楢崎正剛らを擁し、消滅が決まった後の天皇杯で優勝までしています。「強いクラブが消滅する」。クラブの命運を決めたのは、試合結果ではなく経営でした。
そして本書は問いかけます。フリューゲルスは、本当に消滅するしかなかったのだろうか。もし当時、適切な買い手を探す仕組み、所有権を引き継ぐ仕組み、そしてクラブ価値を客観的に把握する評価の枠組みが整っていたなら、別の事業承継の道があったのではないか。
この問いが、本書全体の出発点になっています。
オーディエンスは「感情」、経営には「勘定」
本書の第1章のタイトルは「サッカークラブは『感情』と『勘定』でできている」。この対比が、終章の最後の一行まで一本の糸として貫かれています。
ファン(オーディエンス)は「感情」の生き物です。好きな選手がいて、勝てばうれしく、負ければ悔しい。一方で、クラブ経営にはもう一つの「勘定」が必要です。選手と契約を結び、チケットを売り、放映権料を得る、れっきとした経済活動なのです。
大事なのは、本書がこの2つを対立させていないことです。冒頭で紹介した今大会の狂騒——ダイナミックプライシング、ハーフタイムショー——は、いわば勘定が感情を締め出しつつある例です。
しかしフリューゲルスは逆でした。勘定の仕組み(買い手を探す市場、価値を測る物差し)が欠けていたがゆえに、感情の対象そのものが消えてしまったのです。勘定は感情の敵ではありません。感情の対象を未来へつなぐための道具なのです。岡本さんの言葉を借りれば、「感情を守るためにこそ、数字と向き合う」のです。
私が唸ったポイント
書評として、本書で特に印象に残った点を挙げておきたいと思います。
第一に、「2種類の赤字」の整理です。赤字のクラブに価値はあるのか。この問いに対して本書は、赤字には「未来につながる赤字」と「未来を削る赤字」があると答えます。強くなるための大型補強、将来の成長を見込んだスタジアムや練習環境への投資は前者です。
私が研修で必ず伝えるROIC(投下資本利益率)の翻訳式の考え方、すなわち、未来のためにはヒト・モノ・カネ・時間をしっかりかける一方で、ムリ・ムダ・ムラは省く、という規律そのものです。サッカークラブという題材でこれを語ると、こんなに腹落ちするのかと思いました。
第二に、「価値」と「価格」を明確に区別していることです。価値は評価者が決めるもの(本源的価値)、価格は他人が、あるいは市場が決めるもの。この区別が本書には繰り返し出てきます。「利益(過去)」と「価値(将来)」は同じではない、という整理も同様です。
今は利益が小さくても、熱心なファンが多く、地域に深く根づき、将来の伸びが期待できるクラブは大きな可能性を持っています。バリュエーションの本質を、数式を使わずにここまで伝えられるのかと感心しました。
第三に、同じクラブが「投資家の目線」と「サポーターの目線」でどう違って見えるかを、随所で往復してみせることです。そして財務指標と非財務指標の関係。本書はこう書いています。「サッカークラブという存在は、数字に見える価値と、数字に見えにくい価値の両方で成り立っている」。
ではどちらが大事なのか。本書の立場は明確です。「非財務指標はそれ自体として重要であるが、最終的に財務指標に織り込まれていく、あるいはすでに織り込まれていると考えるのである」。これは私自身が常々考えていることと完全に一致します。ファンの厚み、地域との結びつき、ブランドの力。目に見えないものは、いずれキャッシュフローという見えるものに姿を変えていくのです。
第四に、「クラブはなぜ買収されるのか」の整理です。本書によれば、M&Aの目的は、(1)クラブを守るため、(2)クラブを伸ばすため、(3)クラブの価値を高めるため、(4)資本を入れ替えることで新しい未来を拓くため。日本ではクラブ売却というと「身売り」というネガティブな印象がつきまといます。
しかし2024年のレッドブルによる大宮アルディージャ買収が示したように、M&Aは「終わり」ではなく「次の成長の始まり」になりえます。フリューゲルスには買い手を探す仕組みがありませんでした。大宮には新たな資本による再生の道がありました。この2つの出来事の間にあるものこそ、日本サッカーにおけるM&Aの進化なのだと岡本さんは言います。
感情だけでも、勘定だけでも守れない
冒頭のW杯の話に戻りましょう。
2026年のW杯が示しているのは、勘定が暴走すれば感情を締め出すかもしれないという可能性です。一方、1998年のフリューゲルスは、勘定を欠けば感情の対象そのものが消えるという現実を教えてくれました。サッカークラブは、感情だけでは守れません。しかし、勘定だけでも成り立ちません。
終章にこんな一節があります。「数字は、感情を否定しない。データは、ロマンを壊さない。ファイナンスは、サッカーを冷たくしない」。
ゴールが決まった瞬間の歓喜は、数字では測れません。しかし、その歓喜を10年後、20年後の世代に手渡せるかどうかは、数字と向き合えるかどうかにかかっています。W杯の残り試合を、感情で楽しみながら、時々「勘定」の目でも眺めてみるのもいいかもしれません。この大会の見え方が、まったく変わってくるはずだからです。
サッカーファンにも、M&Aやファイナンスを学びたいビジネスパーソンにも、自信を持ってお薦めできる一冊です。何より、フリューゲルスの悲劇を「二度と繰り返さないための仕組み」として語り直したこと。それこそが、博士論文を本という形で世に出した岡本さんの「想い」なのだと思います。



